† 牧師の紹介

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名前 中原 眞澄
(なかはら ますみ)
生い立ち 1947年,東京・池袋に生まれる。
乳児期は食糧不足で栄養失調に。その後,埼玉県(現さいたま市)や長崎県大村市で幼児期を過ごし,小学校入学前に東京・目白に転居,そこで青少年期を過ごす。
学歴 東京都文京区立関口台町小学校,文京区立第五中学校,東京都立小石川高等学校を経て, 東京大学法学部第3類(政治学)卒業,東京大学大学院宗教学宗教史学修士課程修了。
職歴 大学院時代から,高校で社会科講師を経験。
1975年 東京YMCAに就職,青少年活動を担当。
その後,日本YMCA同盟学生部 主事として6年間,全国を訪問,学生キリスト教運動協力委員会担当主事として,大阪「SCM現場研修」,「八郎潟農村ワーク」,広島「神石聖研ゼミ」,北海道「聖 園聖研ゼミ」等,多くの方々の協働を得て,プログラム開発。
また,WSCF世界学生キリスト教連盟担当として,アジア各国を訪問,会議や研修 プログラムに参加,学生を派遣。
FA関連ベンチャー企業への転職を経て,熊本YMCA,日本YMCA同盟にて,教育部門,調査研究,スタッフ研修等を担当,統括。
1998年 日本基督教団の教職となり,東京・目黒の碑文谷教会にて4年間,伝道師,副牧師として奉仕。
2002~2009年 神奈川・川崎のまぶね教会にて牧師。
2010年~現在 岩手・盛岡の内丸教会の牧師。
◆ 信仰歴 ◆
熊本のメソジスト教会(三年坂教会-現・白川教会)で青年会仲間として出会った両親の信仰を受け継ぎ,キリスト教に導かれる。
父からは,戦前のSCM(社会的&学生キリスト教)運動の体験を背景とする信仰の社会的関心の側面を,母からは,霊的体験に根ざした教会生活と祈りの側面を受け取った。
1960年 基督兄弟団(旧ホーリネス系)大久保教会にて受洗。
授洗者は田中敬止牧師(第2次世界大戦中,4年半の投獄体験)。
1982年 日本基督教団ひばりヶ丘教会に転会,熊本・錦ヶ丘教会を挟んで,継続して,教会学校教師,役員,奏楽者等として奉仕。
1996~1998年 教団Cコースにて,教団教師資格を取得。
牧師のエッセイ
中原牧師によるエッセイです。 毎週更新しています。

   霊に預言せよ(エゼキエル書37章1節~,2015年5月24日の礼拝から)

毎週水曜日の夜にもたれる聖書研究祈祷会で度たび話題になるのが,キリスト教用語の「聖霊」が訳語として適切なのだろうか・・・ということです。と言うのも,日本語で「霊」というと(「聖」がついていようといまいと)何かボヤ〜ッと掴み所のない,空中に漂っている影のような<存在>を想像してしまうからです。それでは聖書本来の言葉があらわしているダイナミックな働きをつかみ損ねてしまいます。むしろヘブル語やギリシャ語の意味に戻って,「息」とか「気」にした方がいいのじゃないか〜〜などと話し合ったりします。▼日本語の挨拶でよく「元気?」と聞いたり答えたりします。「元気」とは<元・気>,すなわち<本来の気>といった意味だろうと思います。私たちが「元気」になるのは,ですから,体の内に私本来の気が満ちている=私(人)が創造された時に内に吹き込まれた神の息(創世記2章)が満ちる時だ〜そう言うことが出来るでしょう。「祈り」の大切さを教会でよく言ったり聞いたりしますが,その大切さを覚えるのは,どんな神学・理屈にまさって,実際に私たちが静まって祈りに身も心も浸す時,いつしか,神から吹き来たった息が内なる魂に暖かく満ちるのを覚える時です。不安や悲しみに心閉ざされ,堅く固まっていた体が,柔らかくほどけていくのを感じます。そんな時,実際に活きて働く祈りの力と尊さを実感するのです。それが霊=神の息の働きでありましょう。▼バビロンに捕虜として連行され,その地で預言者となっていたエゼキエルは,ある日,幻を見ます。ネブカドネツァル王によって滅ぼされたユダ軍の骨が戦場跡の谷間を埋め尽くしているさまを見ます。枯れ果てた骨は即ち,死んだに等しいイスラエルの民を表します。そのおびただしい骨が,エゼキエルの「預言」(神から預かって語り告げる言葉)を聞いた時,筋肉と皮に再び覆われ,もとの肉体を取り戻します。しかし,それだけでは彼らは生き返りません。神はさらにエゼキエルに言います「霊に預言せよ」。その時,神の息(風)が四方から吹き来たり,民は再び活きた民となりました。▼エゼキエルが見た幻は,今の私たちとは縁のない,遠い国の遠い時代の幻視に過ぎないのでしょうか。決してそうありません。今の私たちの世界も,見た目は生きているようであっても,互いに愛することを知らない,平和と和解を求め合うことを知らない,死の支配する世界です。即ち,いのちを貪り取られた,枯れ果てた骨の満ちる世界だと言っていいでしょう。この世界が再び生きるにはどうしたらいいでしょうか。エゼキエルが幻で見たように,骨が再び生きた肉体を取り戻し,そして活き活きと生き始めるには,神の息すなわちキリストの愛の霊によって満たされるしかありません。今の時代,エゼキエルに代わって誰が霊(れい=いき)に預言するのでしょうか。それは,神の息=愛の息吹に生かされていることを,知識ではなく,その体において知る者がなすしかありません。十字架の死に至るまで,その極みまで私たちを愛されたキリスト・イエスの愛を,即ち神の愛を知り・覚える私たちが,エゼキエルのように,神に呼びかけられているのではないでしょうか・・・この,枯れ果てた骨の充ち満ちる世界に向かって「霊(いき)に預言せよ」と・・・。

 

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