毎週水曜日の夜にもたれる聖書研究祈祷会で度たび話題になるのが,キリスト教用語の「聖霊」が訳語として適切なのだろうか・・・ということです。と言うのも,日本語で「霊」というと(「聖」がついていようといまいと)何かボヤ〜ッと掴み所のない,空中に漂っている影のような<存在>を想像してしまうからです。それでは聖書本来の言葉があらわしているダイナミックな働きをつかみ損ねてしまいます。むしろヘブル語やギリシャ語の意味に戻って,「息」とか「気」にした方がいいのじゃないか〜〜などと話し合ったりします。▼日本語の挨拶でよく「元気?」と聞いたり答えたりします。「元気」とは<元・気>,すなわち<本来の気>といった意味だろうと思います。私たちが「元気」になるのは,ですから,体の内に私本来の気が満ちている=私(人)が創造された時に内に吹き込まれた神の息(創世記2章)が満ちる時だ〜そう言うことが出来るでしょう。「祈り」の大切さを教会でよく言ったり聞いたりしますが,その大切さを覚えるのは,どんな神学・理屈にまさって,実際に私たちが静まって祈りに身も心も浸す時,いつしか,神から吹き来たった息が内なる魂に暖かく満ちるのを覚える時です。不安や悲しみに心閉ざされ,堅く固まっていた体が,柔らかくほどけていくのを感じます。そんな時,実際に活きて働く祈りの力と尊さを実感するのです。それが霊=神の息の働きでありましょう。▼バビロンに捕虜として連行され,その地で預言者となっていたエゼキエルは,ある日,幻を見ます。ネブカドネツァル王によって滅ぼされたユダ軍の骨が戦場跡の谷間を埋め尽くしているさまを見ます。枯れ果てた骨は即ち,死んだに等しいイスラエルの民を表します。そのおびただしい骨が,エゼキエルの「預言」(神から預かって語り告げる言葉)を聞いた時,筋肉と皮に再び覆われ,もとの肉体を取り戻します。しかし,それだけでは彼らは生き返りません。神はさらにエゼキエルに言います「霊に預言せよ」。その時,神の息(風)が四方から吹き来たり,民は再び活きた民となりました。▼エゼキエルが見た幻は,今の私たちとは縁のない,遠い国の遠い時代の幻視に過ぎないのでしょうか。決してそうありません。今の私たちの世界も,見た目は生きているようであっても,互いに愛することを知らない,平和と和解を求め合うことを知らない,死の支配する世界です。即ち,いのちを貪り取られた,枯れ果てた骨の満ちる世界だと言っていいでしょう。この世界が再び生きるにはどうしたらいいでしょうか。エゼキエルが幻で見たように,骨が再び生きた肉体を取り戻し,そして活き活きと生き始めるには,神の息すなわちキリストの愛の霊によって満たされるしかありません。今の時代,エゼキエルに代わって誰が霊(れい=いき)に預言するのでしょうか。それは,神の息=愛の息吹に生かされていることを,知識ではなく,その体において知る者がなすしかありません。十字架の死に至るまで,その極みまで私たちを愛されたキリスト・イエスの愛を,即ち神の愛を知り・覚える私たちが,エゼキエルのように,神に呼びかけられているのではないでしょうか・・・この,枯れ果てた骨の充ち満ちる世界に向かって「霊(いき)に預言せよ」と・・・。
牧師のエッセイ
ひとりではない(ヨハネ福音書16章25節~,5月10日の礼拝から)
モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出,荒れ野にあるシナイ山の麓で神が民と契約を結んだ直後のことです。民は舌の根が乾かないうちに神との約束を破ってしまいました。モーセが山に登って不在の間に子牛像を造り,その前で礼拝し,祭を行ったのです。神は怒ってイスラエルの民を滅ぼすとモーセに告げますが,彼は神に執り成し,民の命を救います。その祈りの真中に割り込んで記されたのが「臨在の幕屋」に関する記事です(出エジプト33:7〜)。質素なそのテントの中で神はモーセと「人がその友と語るように,顔と顔を合わせて」語られたとあります。日本語で「顔を貸す」といいますが,その意味は,誰か代理を立てるのではなく,自ら親しく臨むことを意味します。「神が共におられる」とはそういうことです。顔を合わせ,間近に何一つ見逃さずに見守り,語りかけて下さる・・それが私たちの神です。▼イエスが十字架につけられる前夜,弟子達に告げた別れの説教の最後に主は彼らに告げます「あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい,私をひとりにする時が来る」と。勇ましい言葉を言っている彼らが,間もなくイエスが捕らえられるその肝心な瞬間に見捨てて逃げ去ることを,主はよく分かっていたのです。「しかし,私はひとりではない。父が共にいて下さるからだ」と主は言葉を続けます。▼信頼していた親しい者が去り,孤独が心と体に染みる時,神は告げられます「私の顔は(=私自らが)あなたと共に行く」(出33:14),だからあなたはひとりではない〜と。モーセが,そしてイエスもそうでした,神の顔を仰ぎ見,その声を親しく聞くのは,順調の時ではなく,むしろ逆境の中,孤独と失望の時,死を身近に覚える時なのです。決して私をひとりにはしない神が,かたわらに共におられる・・その眼差しと声を私たちは魂で感じるのです。だから,どのよう時にも,勇気をもって歩み出し,語るべき言葉を語れるのです。
【断想〜きれぎれ〜】復活と合理化
復活と合理化 (マタイ28章1節〜)
マタイの復活物語が,他の福音書と最も異なるのは,イエスが葬られた墓に兵士が見張りについた…逃げ出した彼らが復活のお告げを祭司長たちに報告した結果,弟子たちが遺体を盗み出したという話が捏造されてユダヤ人の間で広がった…という部分です。マタイ福音書が記されたAD70〜80年頃,ユダヤ人と教会の間で墓から消えたイエスの体について論争があったでしょう。▼死んだ人間が復活するなんてことは〈あり得ない〉〜それはイエスの弟子たちも分かっていました。けれども〈復活のイエスと出会った〉という証言,その結果,彼らがそれまでと一転,大胆に福音を語り伝える者となった。…このことは疑いない事で,私たちも証人です。▼キリスト教信仰の要は,イエスの復活を信じるか否かにある…。それは確かです。この出来事を人間のちっぽけな頭が理解できる枠で説明=合理化する試みは既に早くから試されていたことは聖書も証するとおりです。しかし,人間の理解を超えた〈いのち〉そのもの,その根源たる神の愛は,理論で証明も否定もできません。信じ・受け取り・受け取り感謝する外,この出来事を〈知る〉ことはできないのです。【断想〜きれぎれ〜】12人を派遣する
マタイ10章5節〜(祈祷会より)
イエスが伝道をされた中で,見落とせないのは,その最初から弟子を招いて一緒に歩み,伝道なっさったことです。信仰は個人的な事柄ですが,同時に,新しい「共同」の在り方を形成していく行為でもあるのです。イエスは決して孤高の人ではなく,むしろ市井の中を多くの人と共に生きられました。だからこそ主は,私たちの悩みも痛みも自らのこととして思って下さいます。▼弟子達の中から男12人を選び,二人づづ組にして宣教に派遣されました。まだ不十分だったでしょうが,イエスは敢えて彼ら自身で伝道を体験することを求められました。その時の用意のリストが挙げられますが,マタイの場合は可成り極端に少なくなっています。イエスが実際に旅しておられた姿をさらに理想化,極端化したのでしょう。しかし,この記事から初期の教会の巡回伝道師達の姿が彷彿と見て取れます。即ち,貧しい村々の貧しい人々の所へ,貧しい姿で訪れていった弟子達の姿と決意が思われます。▼パウロの時代になると,既に主な伝道対象地は,ユダヤガリラヤ地方ではなく,異邦の大きな都市になってますから,そんな貧しい姿ではかえって警戒され,伝道もうまく行かなかったでしょう。時と所に応じて伝道の姿も言葉も変化する例をここに見ることが出来ます。▼遣わされた弟子たちは,マタイの記事によると,病や悪霊に対する権能を与えられ,イエスと同じ業と言葉をもって伝道活動をしています。12人弟子に限られた設定ではなく,後の教会の信徒たちにも同様の働きと言葉とを持って福音を伝えることが期待されていたのです。実際,私たちの伝道の働きにおいても,確かに病が癒やされ,悪霊が追い払われていることを覚えます。主に派遣されていることの重さを覚え,祈り持って共に出かけましょう。【断想〜きれぎれ】アッバ(お父ちゃん)と叫ぶ
ガラテア3章29節〜3月29日礼拝より
招きに応える者に神は「御子の霊」を送り「神の子」として下さる〜パウロはそう記します。民族や身分、男女の別なく,誰もが等しく招かれ,神の約束と祝福を相続する「神の子とされると。その根拠が「『アッバ=おとうちゃん』と叫ぶ御子の霊」だとパウロは言うのです。▼「アッバ」…幼子のような信頼を持って呼びかける祈りは,イエスが最初に始められたものと言われます。毎日,祈りを見つけては,「アッバ」と呼びかけつつ祈りを捧げられたことでしょう。しかしこの呼びかけをパウロは,ここでわざわざ「叫ぶ」と記すのです。言葉に似つかわしくない言い方に思えます。しかし確かにゲッセマネでイエスは,血のように滴り落ちる汗を流しながら「アッバ」と神に向かって叫び祈りました。十字架の上でもイエスは叫ばれました。イエスにおいては,穏やか時だけでなく,悩みと苦しみ,苦しみと嘆きの最中になお「アッバ」と神に叫び,呼びかけられたのです。▼私たちが呼びかけ「父よ」は,どのような響きで口から出されているでしょうか。イエスの痛みと苦しみを思い,またその苦難をわずかでも共に担い歩むときに漏れ出る「アッバ」の叫びこそが,私たちの心に御子の霊が送られていることの何よりの徴なのではないでしょうか。
招きに応える者に神は「御子の霊」を送り「神の子」として下さる〜パウロはそう記します。民族や身分、男女の別なく,誰もが等しく招かれ,神の約束と祝福を相続する「神の子とされると。その根拠が「『アッバ=おとうちゃん』と叫ぶ御子の霊」だとパウロは言うのです。▼「アッバ」…幼子のような信頼を持って呼びかける祈りは,イエスが最初に始められたものと言われます。毎日,祈りを見つけては,「アッバ」と呼びかけつつ祈りを捧げられたことでしょう。しかしこの呼びかけをパウロは,ここでわざわざ「叫ぶ」と記すのです。言葉に似つかわしくない言い方に思えます。しかし確かにゲッセマネでイエスは,血のように滴り落ちる汗を流しながら「アッバ」と神に向かって叫び祈りました。十字架の上でもイエスは叫ばれました。イエスにおいては,穏やか時だけでなく,悩みと苦しみ,苦しみと嘆きの最中になお「アッバ」と神に叫び,呼びかけられたのです。▼私たちが呼びかけ「父よ」は,どのような響きで口から出されているでしょうか。イエスの痛みと苦しみを思い,またその苦難をわずかでも共に担い歩むときに漏れ出る「アッバ」の叫びこそが,私たちの心に御子の霊が送られていることの何よりの徴なのではないでしょうか。