ひとりではない(ヨハネ福音書16章25節~,5月10日の礼拝から)

モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出,荒れ野にあるシナイ山の麓で神が民と契約を結んだ直後のことです。民は舌の根が乾かないうちに神との約束を破ってしまいました。モーセが山に登って不在の間に子牛像を造り,その前で礼拝し,祭を行ったのです。神は怒ってイスラエルの民を滅ぼすとモーセに告げますが,彼は神に執り成し,民の命を救います。その祈りの真中に割り込んで記されたのが「臨在の幕屋」に関する記事です(出エジプト33:7〜)。質素なそのテントの中で神はモーセと「人がその友と語るように,顔と顔を合わせて」語られたとあります。日本語で「顔を貸す」といいますが,その意味は,誰か代理を立てるのではなく,自ら親しく臨むことを意味します。「神が共におられる」とはそういうことです。顔を合わせ,間近に何一つ見逃さずに見守り,語りかけて下さる・・それが私たちの神です。▼イエスが十字架につけられる前夜,弟子達に告げた別れの説教の最後に主は彼らに告げます「あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい,私をひとりにする時が来る」と。勇ましい言葉を言っている彼らが,間もなくイエスが捕らえられるその肝心な瞬間に見捨てて逃げ去ることを,主はよく分かっていたのです。「しかし,私はひとりではない。父が共にいて下さるからだ」と主は言葉を続けます。▼信頼していた親しい者が去り,孤独が心と体に染みる時,神は告げられます「私の顔は(=私自らが)あなたと共に行く」(出33:14),だからあなたはひとりではない〜と。モーセが,そしてイエスもそうでした,神の顔を仰ぎ見,その声を親しく聞くのは,順調の時ではなく,むしろ逆境の中,孤独と失望の時,死を身近に覚える時なのです。決して私をひとりにはしない神が,かたわらに共におられる・・その眼差しと声を私たちは魂で感じるのです。だから,どのよう時にも,勇気をもって歩み出し,語るべき言葉を語れるのです。