いきものと一緒に

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内丸教会の礼拝にて。柴犬のココアさんも礼拝に出席。初めて礼拝に出席するとき緊張するのは犬も人もおんなじですね。(尾が…下向き!)。飼い主のご夫妻と一緒に秋田から礼拝に出席されました。内丸教会では神さまが命を下さった皆で礼拝を守ります。オルガンコンサートがあった日曜日のうれしいゲストでした。

竹佐古真希氏,高橋絵里氏チャペルコンサート♪

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6月7日,パイプオルガニストとして日本中で活躍しておられる竹佐古真希氏,声楽家として宮城県中心に国内外のツアーで活躍されている高橋絵里氏が内丸教会にて共演下さいました。ヴィヴァルディのモテット,パーセル,Sy Miller,バッハ…。教会の二階聖歌隊席から降りてくる極上の音楽がチャペルいっぱいに広がります。暫し,至福のひとときでした。

霊に預言せよ(エゼキエル書37章1節~,2015年5月24日の礼拝から)

毎週水曜日の夜にもたれる聖書研究祈祷会で度たび話題になるのが,キリスト教用語の「聖霊」が訳語として適切なのだろうか・・・ということです。と言うのも,日本語で「霊」というと(「聖」がついていようといまいと)何かボヤ〜ッと掴み所のない,空中に漂っている影のような<存在>を想像してしまうからです。それでは聖書本来の言葉があらわしているダイナミックな働きをつかみ損ねてしまいます。むしろヘブル語やギリシャ語の意味に戻って,「息」とか「気」にした方がいいのじゃないか〜〜などと話し合ったりします。▼日本語の挨拶でよく「元気?」と聞いたり答えたりします。「元気」とは<元・気>,すなわち<本来の気>といった意味だろうと思います。私たちが「元気」になるのは,ですから,体の内に私本来の気が満ちている=私(人)が創造された時に内に吹き込まれた神の息(創世記2章)が満ちる時だ〜そう言うことが出来るでしょう。「祈り」の大切さを教会でよく言ったり聞いたりしますが,その大切さを覚えるのは,どんな神学・理屈にまさって,実際に私たちが静まって祈りに身も心も浸す時,いつしか,神から吹き来たった息が内なる魂に暖かく満ちるのを覚える時です。不安や悲しみに心閉ざされ,堅く固まっていた体が,柔らかくほどけていくのを感じます。そんな時,実際に活きて働く祈りの力と尊さを実感するのです。それが霊=神の息の働きでありましょう。▼バビロンに捕虜として連行され,その地で預言者となっていたエゼキエルは,ある日,幻を見ます。ネブカドネツァル王によって滅ぼされたユダ軍の骨が戦場跡の谷間を埋め尽くしているさまを見ます。枯れ果てた骨は即ち,死んだに等しいイスラエルの民を表します。そのおびただしい骨が,エゼキエルの「預言」(神から預かって語り告げる言葉)を聞いた時,筋肉と皮に再び覆われ,もとの肉体を取り戻します。しかし,それだけでは彼らは生き返りません。神はさらにエゼキエルに言います「霊に預言せよ」。その時,神の息(風)が四方から吹き来たり,民は再び活きた民となりました。▼エゼキエルが見た幻は,今の私たちとは縁のない,遠い国の遠い時代の幻視に過ぎないのでしょうか。決してそうありません。今の私たちの世界も,見た目は生きているようであっても,互いに愛することを知らない,平和と和解を求め合うことを知らない,死の支配する世界です。即ち,いのちを貪り取られた,枯れ果てた骨の満ちる世界だと言っていいでしょう。この世界が再び生きるにはどうしたらいいでしょうか。エゼキエルが幻で見たように,骨が再び生きた肉体を取り戻し,そして活き活きと生き始めるには,神の息すなわちキリストの愛の霊によって満たされるしかありません。今の時代,エゼキエルに代わって誰が霊(れい=いき)に預言するのでしょうか。それは,神の息=愛の息吹に生かされていることを,知識ではなく,その体において知る者がなすしかありません。十字架の死に至るまで,その極みまで私たちを愛されたキリスト・イエスの愛を,即ち神の愛を知り・覚える私たちが,エゼキエルのように,神に呼びかけられているのではないでしょうか・・・この,枯れ果てた骨の充ち満ちる世界に向かって「霊(いき)に預言せよ」と・・・。

 

ひとりではない(ヨハネ福音書16章25節~,5月10日の礼拝から)

モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出,荒れ野にあるシナイ山の麓で神が民と契約を結んだ直後のことです。民は舌の根が乾かないうちに神との約束を破ってしまいました。モーセが山に登って不在の間に子牛像を造り,その前で礼拝し,祭を行ったのです。神は怒ってイスラエルの民を滅ぼすとモーセに告げますが,彼は神に執り成し,民の命を救います。その祈りの真中に割り込んで記されたのが「臨在の幕屋」に関する記事です(出エジプト33:7〜)。質素なそのテントの中で神はモーセと「人がその友と語るように,顔と顔を合わせて」語られたとあります。日本語で「顔を貸す」といいますが,その意味は,誰か代理を立てるのではなく,自ら親しく臨むことを意味します。「神が共におられる」とはそういうことです。顔を合わせ,間近に何一つ見逃さずに見守り,語りかけて下さる・・それが私たちの神です。▼イエスが十字架につけられる前夜,弟子達に告げた別れの説教の最後に主は彼らに告げます「あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい,私をひとりにする時が来る」と。勇ましい言葉を言っている彼らが,間もなくイエスが捕らえられるその肝心な瞬間に見捨てて逃げ去ることを,主はよく分かっていたのです。「しかし,私はひとりではない。父が共にいて下さるからだ」と主は言葉を続けます。▼信頼していた親しい者が去り,孤独が心と体に染みる時,神は告げられます「私の顔は(=私自らが)あなたと共に行く」(出33:14),だからあなたはひとりではない〜と。モーセが,そしてイエスもそうでした,神の顔を仰ぎ見,その声を親しく聞くのは,順調の時ではなく,むしろ逆境の中,孤独と失望の時,死を身近に覚える時なのです。決して私をひとりにはしない神が,かたわらに共におられる・・その眼差しと声を私たちは魂で感じるのです。だから,どのよう時にも,勇気をもって歩み出し,語るべき言葉を語れるのです。