たんぽぽと神さま

今日は天気が良かったので草取り日より。牧師館の裏から始まりせっせと鎌でタンポポを中心とした草取りに励みました。取っても取っても終わらない。(いっそ除草剤で根絶やしにするか?!…)と、めげそうになったその時、一匹の蜂が今、まさに鎌をかけようとするタンポポにとまってせっせと蜜を集めています。(まあ美しい…)と観察していたら、教会の方向から「お花きれいねえー」と声が。ちいさなこどもがタンポポの花をうれしそうに摘んでいました。ご近所に住んでいるのか、教会はお散歩コースになっている様子。前にもお見かけしたかわいらしい親子でした。この付近は盛岡も中心部なので殆どコンクリート。(タンポポもそういえばこのあたりでは見ないよねえ…)とほのぼのしつつ、神さまが造られたものにいらないものはないんだなあ、と大いに反省。せめて花の時期は…と残りのタンポポは花が終わってからこっそり刈ることにしました。

『今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。』ルカ福音書12章

【断想〜きれぎれ〜】復活と合理化

復活と合理化 (マタイ28章1節〜)

マタイの復活物語が,他の福音書と最も異なるのは,イエスが葬られた墓に兵士が見張りについた…逃げ出した彼らが復活のお告げを祭司長たちに報告した結果,弟子たちが遺体を盗み出したという話が捏造されてユダヤ人の間で広がった…という部分です。マタイ福音書が記されたAD70〜80年頃,ユダヤ人と教会の間で墓から消えたイエスの体について論争があったでしょう。▼死んだ人間が復活するなんてことは〈あり得ない〉〜それはイエスの弟子たちも分かっていました。けれども〈復活のイエスと出会った〉という証言,その結果,彼らがそれまでと一転,大胆に福音を語り伝える者となった。…このことは疑いない事で,私たちも証人です。▼キリスト教信仰の要は,イエスの復活を信じるか否かにある…。それは確かです。この出来事を人間のちっぽけな頭が理解できる枠で説明=合理化する試みは既に早くから試されていたことは聖書も証するとおりです。しかし,人間の理解を超えた〈いのち〉そのもの,その根源たる神の愛は,理論で証明も否定もできません。信じ・受け取り・受け取り感謝する外,この出来事を〈知る〉ことはできないのです。

副牧師見聞記

見聞記事始め

教会のこと,牧師館から見える四季,いろんなことを副牧師1年生の私,中原陽子がつれづれ綴ります。盛岡ライフもまだまだ始まったばかり。わくわくどきどきの教会ライフをお伝えします。

 

【断想〜きれぎれ〜】12人を派遣する

マタイ10章5節〜(祈祷会より)

イエスが伝道をされた中で,見落とせないのは,その最初から弟子を招いて一緒に歩み,伝道なっさったことです。信仰は個人的な事柄ですが,同時に,新しい「共同」の在り方を形成していく行為でもあるのです。イエスは決して孤高の人ではなく,むしろ市井の中を多くの人と共に生きられました。だからこそ主は,私たちの悩みも痛みも自らのこととして思って下さいます。▼弟子達の中から男12人を選び,二人づづ組にして宣教に派遣されました。まだ不十分だったでしょうが,イエスは敢えて彼ら自身で伝道を体験することを求められました。その時の用意のリストが挙げられますが,マタイの場合は可成り極端に少なくなっています。イエスが実際に旅しておられた姿をさらに理想化,極端化したのでしょう。しかし,この記事から初期の教会の巡回伝道師達の姿が彷彿と見て取れます。即ち,貧しい村々の貧しい人々の所へ,貧しい姿で訪れていった弟子達の姿と決意が思われます。▼パウロの時代になると,既に主な伝道対象地は,ユダヤガリラヤ地方ではなく,異邦の大きな都市になってますから,そんな貧しい姿ではかえって警戒され,伝道もうまく行かなかったでしょう。時と所に応じて伝道の姿も言葉も変化する例をここに見ることが出来ます。▼遣わされた弟子たちは,マタイの記事によると,病や悪霊に対する権能を与えられ,イエスと同じ業と言葉をもって伝道活動をしています。12人弟子に限られた設定ではなく,後の教会の信徒たちにも同様の働きと言葉とを持って福音を伝えることが期待されていたのです。実際,私たちの伝道の働きにおいても,確かに病が癒やされ,悪霊が追い払われていることを覚えます。主に派遣されていることの重さを覚え,祈り持って共に出かけましょう。

教会総会が開かれました。

image桜満開の盛岡ですが、本日は2015年の教会総会。昨年の振り返り,感謝,継続課題の報告,決算予算の審議,そして役員選挙も。今年度から新たに中原(生嶌)陽子牧師を副牧師として招聘することが決定しました。内丸教会,今年度もMissionとVisionを掲げて歩み出しました。皆で祈りつつ,労りつつ歩んでまいりましょう。