【断想(きれぎれ)】「へん在」する神
聖書を書き記した民族イスラエルは,指導者モーセに導かれてエジプトから脱出,シナイ山で神と契約を結んだ時に,その特別の歩みを始めた・・・そう言ってよいと思います。この神は,難しい言葉で言うと,全知・全能であって「遍在」する神=あらゆる所におられる神と言われます。すなわち,この世界の何処へ逃げようとも,神の目から逃れることはできないし,逆に,何処にいようとも,神は共にいて下さる・・・イスラエルの詩人が歌った詩を集めた詩篇などでは,神はこのような神として頌えられています。▼しかし旧約聖書を読んでいくと,神さまが特に好きこのんで共にいる人,あるいは民がいたと記されています。では,神が好きこのんで一緒にいることにした人々はどのような者たちだったのでしょうか。申命記26章その他を読むと,それは,エジプトに寄留(外国人として生活)していたイスラエルの民がその典型でしたが,虐げられ,貧しくされ,小さくされ,人々から除け者にされている人々をこそ神は選んで,共におられるのだ・・・そう記してあるのです。イスラエルの人々は,自分の歴史を振り返りながら,そのことを繰り返し,信仰として告白します。「遍在」何処にでもおられる神は,歴史の中においてはむしろ「<偏>在」する神・・・弱く小さい人々を偏り愛し,味方する神なのだ・・というのです。▼聖書の告げる神は,このように偏って私たちの間に宿ってくださっている神なのです。でも,だからこそ私たちの誰もが,声は例え弱々しく,小さくあっても,しかしだからこそ,この神に向かって祈り,叫び,求めることが出来るし,まただからこそ,聞き,励まして下さるのです。この神は必ず,私たちの小さく弱い叫びに応え,私たちを解き放って,約束された義と平和の国に向けて自由に歩き出す者として下さいます。